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鹿児島県川辺生まれ ラ・サール高校出身の【俳人・福永耕二】を知っているか。

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ご無沙汰しております。かざぐるまです。

3回目の投稿は鹿児島の偉人について。

鹿児島の偉人と聞いてぱっと浮かぶのは、西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀などなど

いかにもなビッグネームばかりではないでしょうか。

 

もったいない。ああ、もったいない。

鹿児島には素晴らしい功績を残した偉人が他にもたくさんいるというのに…。

というわけで、俳人・福永耕二さんをご紹介します。

 

福永耕二 表紙

 

まずはプロフィール

福永耕二(ふくながこうじ)

昭和13年 1月4日、鹿児島県川辺郡川辺町(現・南九州市)に生まれる

昭和28年 私立ラ・サール高校に入学。在学中より「馬醉木」に投句

昭和31年 鹿児島大学文理学部に入学。鹿児島の俳誌「ざぼん」の編集

昭和33年 20歳で「馬醉木」巻頭を得る

昭和35年 鹿児島大学国文学科を卒業、純心女子高校に赴任

昭和40年 能村登四郎の推薦により上京、千葉県私立市川高校に勤務

昭和44年 馬醉木同人となる

昭和45年 「沖」創刊に参加。「馬醉木」編集長

昭和47年 第一句集『鳥後』を上梓。馬醉木賞、沖賞を受賞

昭和55年 第二句集『踏歌』で俳人協会新人賞受賞。12月4日、敗血症に心内膜炎を併発して急逝、42歳

昭和57年 第三句集『散木』、美智子未亡人により上梓

 

私と福永耕二さんを繋いだのは

「作家は,永遠にその作品の中に生きつづけるために、その孤独という当然の犠牲を支払うのではあるまいか」

という言葉でした。

 

かっこいい。

以前から不思議に思っていた「作家はどうしてああも自分を隔離しひとりぼっちで制作するのか。挙句の果てに自殺までするのはなぜなのだろうか。」という問いに対するひとつの答えを見つけたような気がしました。

 

川辺出身の福永さんですが、高校はラ・サール高校に進学しました。

福永さんには兄がいて、この兄がやんちゃというか元気がありあまる少年で、後輩のお世話を(シメていた)していたようです。

そこに自分が入学したら兄の代わりに報復を受けるのではないかと恐れ、ラ・サール高校に進学したそうです。

 

進学後、当時鹿児島大学からラ・サール高校に来ていた米谷靜二(よねたにせいじ)先生と出会い、俳句を教えてもらいます。

福永耕二さんと俳句の出会いです。その影響で在学中から水原秋櫻子(みずはらしゅうおうし)先生が主宰する俳句雑誌「馬醉木(あしび)」に投句を始めます。

 

ラ・サール高校卒業後は鹿児島大学に入学し、大学に通いながら鹿児島の俳句雑誌「ざぼん」の編集に関わります。

20歳の時には高校時代から投句を重ねていた「馬醉木」の巻頭を得ます。※巻頭はふつう最優秀作を置きます。

 

鹿児島大学卒業後は、純心女子高校に赴任し、国語の先生として働きながら俳句を作り続けます。

教師として5年立ったある日、福永耕二さんは「馬醉木」を主宰する水原秋櫻子先生の元で俳句を学びたいと考え、上京します。

上京後は千葉県私立市川高校に勤務します。

 

昭和47年、34歳の時に最初の句集『鳥語』を出版します。

記念すべき最初の句集にタイトルをなぜ鳥語にしたか…。

句集名を『鳥語』としたのは、その言葉が文字・響きともにただ何となく好きだったからというにすぎない。

かっこいい。わかりやすい。

鳥語の中で私のお気に入りの句をいくつか紹介します。

向日葵のうつむく方へ犬も去り

白猫のみるみる穢れ冬隣

朧月母ねむらせてのち眠る

 

『鳥語』出版の8年後、第二句集の『踏歌』を出版します。42歳でした。

あとがきには

この七年間は私の三十代後半に当たり、怱忙の裡にも仲間と交歓し、充実した時期であった。それを記念する思いもある。

という言葉を残しています。

 

踏歌で私のお気に入りはこの一句。

新宿ははるかなる墓碑鳥渡る

のどかな鹿児島から上京した福永耕二さんの目には、そびえたつ都会のビルがまるでお墓のように見えたのでしょうか。

 

踏歌で俳人協会新人賞という名誉ある賞を受賞し、作家として更なる活躍が期待されましたが、同じ年の12月に病によって命を奪われてしまいます。

福永耕二さんの俳人としての活躍もこれでおしまい…と思いきや、2年後に妻の福永美智子さんによって第三句集『散木』が出版されます。

美智子さんのあとがきで印象的だったのが

夫は家庭において太陽のように明るく、優しさを秘めたユーモアと笑顔で、私どもを大きく包んでくれました。

という一文。あとがきの中には他にもたくさん夫を称える言葉がちりばめられています。

福永耕二さんを称える動きは、美智子さん以外にも。

 

今年で17回目の開催となる南九州市かわなべ青の俳句大会は、

福永耕二さんが地元の高校ではなく、ラ・サール高校に進学する(今となれば素晴らしい)きっかけを作った兄の同級生の方が福永耕二さんを称え企画しました。

同級生の方は、「風と競う帰郷のこころ青稲田」の句が彫られた記念碑も建てました。

青の俳句大会の表彰式は、福永耕二さんの命日12月4日にちなみ、毎年12月の第一土曜日に行っているそうです。

第1回大会では、スポーツ解説者の宮下純一さんが最優秀賞を受賞しています。

 

 

俳人として主に中央で活躍したものの、鹿児島で知っている人はほとんどいないと思います。

私も冒頭の言葉と出会い、衝撃を受けるまでは名前を聞いたこともありませんでした。しかし、知れば知るほど福永耕二さんに惹かれてしまうのです。

言葉や考えに共感を覚え、思わず泣きそうになってしまうのです。

 

僕は今後、もっと自分の青春の哀歓を詠もうと思う。たとえそれが暗く閉されたものであろうが、また軽薄と言われようが、僕が今詠まなくては詠むときは二度と還ってこないのである。

かっこいい。

福永耕二さんは俳人ですが私は、俳句以外の文章から感じられる人柄や情熱に惹かれました。

 

『鳥語』『踏歌』『散木』の実物が見たいという方は、かごしま近代文学館・かごしまメルヘン館(http://www.k-kb.or.jp/kinmeru/)に収蔵されていて手に取ることもできるのでぜひ!

その他、椋鳩十さんや向田邦子さんの展示もあるのでみなさま、ぜひぜひ。

 

あー。鹿児島のみなさまに知ってもらい、あわよくば鹿児島人としての誇りに繋がりますように。

ありがとうございました!

 

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