最近、昭和29年5月に国分町と合併するまであった「旧清水村」に頻繁に出かけている。
旧清水村にあたる地域は、現在もたくさんの方がお住まいなのだが、地域の歴史や特徴を伝える読み物を製作するというミッションを受け、せっかくの機会なので、合併前を知る古老にもお話を聞くため通っている。
もちろん、社会的距離を意識しながらの聞き書き調査で、昔を知る古老らの話は実に豊かだ。
ちなみに清水村は現在の霧島市では、国分清水、国分郡田、国分台明寺、国分川原の大字にあたる地域で、北東にかけて山間部が広がっている。
清水村の中心が麓で、かつては村役場がおかれていた。江戸期には村全体が清水郷と呼ばれ、麓は郷を統括する武士らの居住地であった。
清水郷の総鎮守は北辰神社こと天御中主神社で、地域の方々は「ほっしんさあ」と親しみを込めて呼んでいる。
麓周辺にお住まいの古老の話には、必ず「ほっしんさあ」が登場し、受け継がれている祭りのことや奉納される団子のことなどを知ることができた。
ほっしんさあを中心に行なわれる夏の祭りに「おくだり」があり、神社を出発した神輿や旗の行列が集落を一日かけて練り歩く。
神輿の順路も興味深く、効率的に地域を周るというよりは、通ってはならない道を避け、絶対に通らないといけない道を通りながら路地から路地へと進む。
昔から決められている順路は、新しい道路や大きな道路が増えた現在でも変わることはないという。
そのなかで、いわゆる通ってもいい通りのひとつに、麓の主要馬場でもある「鶴丸どんの馬場」があり、通り沿いには今も武家門を有する屋敷が立ち並んでいる。
麓郷士の鶴丸家があったことからの命名を考えられるが、鶴丸どんの馬場はまっすぐではなく、北端で微妙な枡形を描いている。
つまり、馬場を便利に直進することができなくなっており、これは防衛を意識した麓(武家屋敷群)にはよく見られるものである。
そしてこの馬場の突き当りにあるのが、南九州から沖縄にかけて、地域の三叉路などによくみられる「石敢当(せっかんんとう)」である。
呼び方や書き方は一定でなく、石散当や石敢富など様々だが、前述にように三叉路や屋敷角、道路脇にあるのがほとんどである。起源も正確なことはわかっていないが、中国から琉球王国経由で伝わって来たという説が分布からみても自然と思われる。
そのような石敢当だが、高さは30センチ前後のものが多い。魔除けの意味で設置されるが、通りの通行などの邪魔にならない程度の小さなタイプがほとんどだ。
しかしこの鶴丸どんの馬場のは大きい。下部は石垣と一体化し、上部はコンクリートと一体化しているという時代の変遷も伝えてくれる在り方だけでなく、長さが130センチもある。これよりも長い石敢当は日置市東市来町長里で164センチのものを見たことがあるので、県内一とはいえないが、平均的なものよりは確実に長い。
さらに珍しい点は、上部と下部の両方に「石散當」と彫り込まれていることである。彫り具合からみて、上部が古い時代のものと考えられるが、二重に刻まれたタイプはおそらくここだけだろう。
その理由をお聞きすることができたのでご紹介する。
石散當の背後にある住宅・旧安田商店に居住されていた安田宜久氏(68)によると、太平洋戦争の空襲で突き当り付近に時限爆弾が落ち周囲含め被害を受けたが、石垣と共に復旧させたためとのこと。つまり、下部の文字は戦後に追加されたということになる。
上部の建立年ははっきりしていて、元文5(1740)年11月吉日とあり、現在確認されているなかでは県内で二番目に古いとされている。
石散當のある旧安田商店から道路は急に勾配がきつくなるが、そこには戦国期、島津本宗家15代貴久の弟・忠将の屋敷があったとされ、江戸期には地頭館もおかれた。
また、先述の北辰神社の「おくだり」行事では、この石散當の前でも行列が立ち止まり、神事が行われるという。
けっこうでかく、古さも県内で2番目くらい、戦災を受けつつ復活し二重に文字が彫られている、立地が歴史的など、関係する情報盛りだくさんの石散當だけに、すでになんらかの文化財に指定されていますかと地元の方にお尋ねしたところ、まだ何にも指定されていないとの返答であった。
それなら世間遺産の出番であろうと思い、古老の皆様への感謝の気持ちと、馬場を含めてこれからも地域を守護してほしいと願いを込め、認定した。
参考文献
国分郷土誌 上・下・資料編 平成10年発行 国分郷土誌編纂委員会
さつま路の民俗学 平成3年発行 下野敏見 著
この記事はかごしま探検の会の東川隆太郎さんに寄稿いただき、カゴシマニアックス編集部で編集したものです。
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