よく蛇の夢を見る。
蛇の夢を見るとお金が貯まると言われるが、そちらの実感はまったくない。
でも、蛇の夢をよく見る。
蛇は大の苦手なので、夢で蛇が登場する際にはいつも怯えた状態だ。
夢の蛇は、よく足元あたりをうろうろしている。
それも藪とか田んぼの畦とかではなく、普通のアスファルトの道路にたくさんいる。
足元をウロウロされるのでつい起きてしまうが、その時には夢でよかったとほっとする。
最近そんな夢に近いことが現実に起った。
志布志の街なかでの出来事である。
志布志市の志布志支所の近くといえば志布志市の中心市街地。
商業施設や住宅などが立ち並び、交通量も多い地域だ。
江戸時代には千軒町と呼ばれる港町で、太平洋に面した立地からとにかく繁栄した。
山中邸という明治期に建造された商家も残っていて、千軒町の繁栄ぶりをうかがい知ることができる。
その山中邸にお邪魔する機会があった時、向かい側のパチンコ屋の駐車場の脇でくの字になって横たわっている青大将がいたのである。
梅雨のジメジメした天候とはいえ街中で見るにはなかなかの大きさであったため仰天したが、私にとっては幸いで、蛇にとっては不幸なことに、すでに息を引き取った状態であった。
とはいえ発見当初は一瞬夢と現実の境にいるような感覚に陥った。
死んだ状態ということが分かると、苦手なはずなのに随分近づいて観察した。
周辺には藪など見当たらず、山手からも距離がある。
どうやってここまで来てどうして亡くなったのだろう。
今も時々、思い出しては考えることがある。
苦手なのに気になるのは何故だろう。
さて本題に移ろう。
志布志の発展を支えた交易は、市街地を流れる前川の河口を中心に行われていた。
江戸時代には津口番所が置かれ、藩も貿易などを管理していた。
現在も津口番所跡の石垣が残り、当時を偲ばせてくれる。
その前川の河口に権現島と呼ばれる島がある。
河口の湊を守る防波堤のような役割も担っていた。
昭和43(1968)年からの外港地区の埋め立て工事に伴い、現在は島ではなくなり、防波堤を辿って歩いて渡れるようになっている。
それまでは権現島の前は南に向かって砂浜も広がり、昭和20(1945)年にはアメリカ軍による本土上陸作戦が計画された場所でもあった。
権現島の基底部には、そのアメリカ軍に備えた日本軍の砲兵陣地跡を確認することができ、それを私は2007年に世間遺産として認定している。
機銃を据えるために基盤岩を加工した様子も確認できるが、水際でアメリカ軍を迎え撃つにしては貧弱に感じられる規模でもある。
今回は、陣地跡のみならず島全体を世間遺産にしたいと考えている。
それは、島に伝わる物語が他も興味深いものばかりだからだ。
まず権現島の頂上には江戸時代まで、近くにあった名刹・宝満寺に関連した波上権現があった。
現在は航海安全を祈願し、事代主命(コトシロヌシノカミ)を御祭神とする蛭児神社が祀られている。
その波上権現時代の様子は「志布志旧記」という史料にある。
前川で悪さをする河童が権現の神様に諫められ、悪さをしないことを誓うかわりに河童は自らの片手を収めたという記述がある。
また、権現島の地質にも志布志らしさが見られる。
砲兵陣地が築かれた基盤岩は、鹿児島県では「シラス」と呼ばれる入戸火砕流の溶結部(硬い部分)であり、それが発達していたからこそ、海の波などから浸食されずに島として前川河口に残存していたといえる。
この入戸火砕流の溶結部は、周辺の武家屋敷群や志布志を代表する祭り・「お釈迦祭」の舞台の宝満寺跡にも顕著に確認できる。
志布志の石文化の特徴ともいえるのが「シラス」の溶結部であり、権現島の起源にもつながっている。
このように、砲兵陣地跡、河童の伝説、貿易地の前川の防波堤、シラスの溶結部と様々な物語が複合しての権現島であることから、日南線の鉄橋との景観的相性の良さも含めて世間遺産に認定した。
参考文献
志布志町誌 上・下巻 昭和59年 志布志町発行
この記事はかごしま探検の会の東川隆太郎さんに寄稿いただき、カゴシマニアックス編集部で編集したものです。
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