食堂や病院の待合室に置いてある週刊誌をめぐり最近も葛藤があった。
とある週刊誌は、女性グラビア等が前後のページ(特に後半のページ)にカラー刷りで特集として組まれている。
それらは「袋とじ」と呼ばれ、肝心の女性たちのグラビアが内部に仕込まれて容易に見ることができない仕組みになっている。
それらを見ようと思うなら、手で袋状に綴じられた紙を開くことが一番簡単であるが、慎重に行わないと紙ゆえに見たい箇所まで破けてしまう可能性もある。
なので、はさみやカッターを使って袋を開封することがベストである。しかし、そのような週刊誌を読むことを主たる目的として食堂や病院に行くことはあまりないというか無いので、往々にしてはさみやカッターを持ち込んではいない。
ただ、食堂の場合はすでに袋とじが開封されている場合が多く、自分が開拓者となって開封せずとも、安心・安全に袋とじの中身に触れることができる。
問題は病院の待合室である。先日も袋がしっかり閉じられた状態の週刊誌に出逢った。
もちろん、はさみやカッターは持ち合わせていない。
かといって手で開封すると音もそれなりにするし、そもそも待合室の週刊誌は私個人の物でもない。
だけども、週刊誌の見出しの宣伝文句から中身が非常に気になってしかたがない。
そこで私は勇気を出し、開拓者として袋の開封を手での切開の方法で試みることにした。
周囲の皆様のお邪魔にもなってはいけない…と慎重にゆっくりと指先に全神経を集中していたその時、たまたま診察に訪れていた知り合いが声をかけてきた。
というわけで開封作業は中途半端に終わった。なんてタイミングなんだろう。
さて、このような枕の後で本当に恐縮だが、伝統ある小学校にゆかりのある世間遺産をご紹介。
さつま町宮之城屋地にある盈進(えいしん)小学校は、今年で創立162周年を迎える伝統校である。
現在学校がある場所は、江戸時代には宮之城島津家の領主館であった。安政5(1858)年、宮之城島津家15代久治は、領内の子弟教育のために盈進館を建てる。
四書五経や歴史の講義が行われ、成績優秀者には領主から筆や紙などが与えられたという。
ちなみに、武道の修練場として、同時に厳翼館も同じ敷地に建てられている。
このように伝統ある学校に本格的なプールが完成したのは昭和16年のこと。
盈進小学校近くには川内川が流れ、対岸の虎居地区とはなかなかの距離があるほど川幅もある。
河川敷も広く、現在も降雨がない時にはイベントが開催できるほどである。
それだけに河川敷を利用した交易は古くから行われていて、上流の伊佐地方から川舟で運ばれる年貢米の集積場になっていた。
周辺は川原町と呼ばれ繁盛したが、反面川内川の洪水の際には被害を受けやすい場所でもあった。
故に現在も河川敷そばの岩場には水神碑が建立されている。
そこに25メートルプールが誕生したのが前述のように昭和16年なのである。
しかも学校が建設したのではなく、地元出身の篤志家で・小牧兼雄氏が提供したものである。
小牧氏は明治25年に川原町に生まれ、もちろん盈進小学校を卒業して、宮之城運輸会社の専務をしていた。
プール工事には児童らも労力奉仕を行って完成。
そして小牧氏はプール開きにベルリンオリンピックで金メダルを獲得した葉室鐡夫を招待して水泳指導もお願いしている。
この費用も小牧氏が工面しているのだからふるっている。
戦後昭和26年には学校の敷地にプールが完成するが、これにも小牧氏が資金調達などで全面的に協力している。
こうした環境整備が実を結んでか、昭和31年にはメルボルンオリンピックの水泳代表に宮之城出身の古川徹氏が選出された。
現在、河川敷には「盈進水泳場」と刻まれた石碑が建立されている。
地元の人々はこのプールを「下んこらのプール」と呼んでいたという。
悠々と流れる川内川と石碑を眺めながら、地域のために惜しみなく己の財と力を注いだ小牧兼雄氏の人柄に思いを馳せた。
ん~今のボクの年の頃にはこの下んこらのプールを造っていたんだな~。
己の欲望と葛藤している場合じゃないな~ということで世間遺産に認定した。
参考文献
さつま町人物伝 さつま町郷土史研究会 平成27年11月発行
ふるさと川原の歴史 神園清秀 平成11年10月発行
宮之城町史 宮之城町史編纂委員会 編集 平成12年6月発行
この記事はかごしま探検の会の東川隆太郎さんに寄稿いただき、カゴシマニアックス編集部で編集したものです。
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