「さぼる」とはこういうことである。
本当に久しぶりに世間遺産を執筆した。
9月までは驚くほどに暇だったので自分で言うのもなんだが順調な執筆ぶりだった。
その後10月くらいから世間が動き始めると、なんだか筆が止まってしまった。
世間遺産と出会う作業は怠りなく継続していたが、筆は止まった。理由は単純で、ただ「さぼる」である。本当にさぼってました。
すいません。
年末年始鹿児島も寒かったので、家に籠って自分が撮影した写真を整理したり、見返したりしていると、わりといろんな便所の写真を撮影していた。
特に公民館付きの便所に興味があるため、ゼンリンの住宅地図を拡げては自治公民館に目星をつけ実際に出かけることを繰り返している(私の便所への取組は「特別編~鹿児島の愉快な便所たち(かごラヴァ)」を参考されたい)。
近年は老朽化を理由に公民館の改修が進み、便所も外付けよりも屋内に設置されるようになり、撮影に出向いても便所に辿り着かないこともある。
地域の方もそれぞれの努力で公民館を改修されているので文句は言えないのだが、そんな中、外付けの便所に遭遇するとなぜかほっとする。
何故だろう。
公民館の鍵が閉まっていても便所は使うことができるし、地域外にもこの地域は開かれてる~って感じがするからだろうか。
そのようにして出会った便所の一つが古前城公民館の便所である。
まず古前城公民館は、地元の方ではないとなかなか発見しにくい公民館でもあるのでは。
交通量のある道路からは一歩、いや二歩も入り組んだ場所にある。
それだけに佇まいは素晴らしく、「迷宮に迷い込んだけど最後にご褒美のように出会えた建物」とでも表現すべきだろうか。
さて肝心の便所は、玄関の左側奥にひっそりとあり、屋根の状況から使用されている感じは半分くらいといったところ。
いやもっと低いかもしれない。
それでも観賞用としては私の心をぐっとつかんだ。
古前城公民館の便所、フォーエバー。
ただ、今回ご紹介したい世間遺産は、これだけではない。
公民館横の敷地に、やはりひっそりと佇む何かがあったのだ。
そこにあったのは、ふたつの記念碑で、両方とも西南戦争に従軍、または戦死した人々の記録を刻んだものであった。
まず、なぜこの場所に従軍記念碑があるかといえば、古前城町はその地名(城部分)から連想できるように江戸期には武士の居住する麓と呼ばれる地域であった。
つまり、鹿屋市が鹿屋郷と呼ばれていた時代、中心的役割を担う地域であり、この地域には武士層が居住、明治十年の西南戦争にはこの地域から数多くの人が従軍することになる。
鹿屋郷における武士の居住地区は、古前城町と打馬町に集中しており、特に古前城町には武家門や町割などにもその面影が残っている。
ただ、こうした西南戦争の従軍者記念碑は、鹿児島県内ではさほど珍しいものではなく、本土域を中心として、それぞれの地域に「招魂碑」や「従軍碑」として従軍者の名や戦死地が刻まれている。
今回私が注目したのは、従軍者の中に朝鮮名が多数刻まれていることである。
「鄭」「何」「金」「車」「朴」といった姓が記念碑の中に読むことができ、これは他の地域にはあまり見られない。
これら朝鮮名の人々の源流は、慶長3(1598)年の朝鮮出兵に際して連行されてきた朝鮮陶工の物語に求めることができる。
陶工たちは、江戸初期には藩命によって苗代川(現在の日置市)に居住し、焼物製作を中心に生活を始めた。
しかし一世紀ほど過ぎた宝永元(1704)年から翌年にかけ、30余戸160人に対して当時開発段階にあった鹿屋郷の笠野原台地への移住が命じられたのである。
現在もその出来事を示すように、苗代川に鎮座する玉山神社を勧請したものが笠之原町にある。
そして時は再び移り、笠野原に移住した朝鮮国ルーツの人々も、鹿屋郷から西郷軍側で参戦したということになる。
なお苗代川は現在美山と呼ばれており、当地にも朝鮮陶工の末裔らが西南戦争に従軍した記録がある。
公民館横にひっそりと佇む記念碑が、時に様々な地域の歴史を伝えてくれることがある。それが建てられた時代に限らず、もっと時を遡れることもある、ということを再認識させていただいたことに感謝しながら世間遺産に認定した。
参考文献
鹿屋市史 上巻・下巻 平成7年発行 編集 鹿屋市史編さん委員会
薩摩・朝鮮陶工村の四百年 2014年発行 久留島浩 須田務 趙景達 編者
この記事はかごしま探検の会の東川隆太郎さんに寄稿いただき、カゴシマニアックス編集部で編集したものです。
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