5月初めに、奄美大島と徳之島の一部、また沖縄島と西表島の一部が世界自然遺産登録に大きな一歩を踏み出したという朗報が伝えられた。
コロナ渦にあって、特に鹿児島県と沖縄県にとっては明るい話題となった。
さて、世間遺産にも世界遺産と同じく世間自然遺産がある。さらには複合遺産もある。
ただ、世界遺産では自然遺産に相当する場合において国立公園ならぬ僕立公園として表現するようにしている。
まあどっちでもいいことであろうが。
ということで、今回ご紹介したい地域は、ずばり僕立公園であり、いつもよりも自然景観を評価基準の重きをおいた世間自然遺産である(だからどっちの言い方でもいい)。
鹿児島市は広い。北は旧吉田町から南は旧喜入町まで。平成の大合併以前も現在の南九州市と接する山間地域などは、イメージされがちな市街地や住宅地とは異なる鹿児島市の雰囲気があり、魅力的な秘境感にもあふれている。
そのような地域のひとつが火の河原集落である。錫山から川辺に抜ける県道19号から脇道にそれること車で5分くらいの場所なのだが、目指さないとなかなか通過することも少ないと思われる地域なので周囲の変化から隔絶した感がある。南九州市川辺町清水と道路や畑地を隔てて接している集落で、集落を流れる川はのちに万之瀬川に注ぎ、県道19号から集落に向かう際にはその支流沿いの道路を進むことになる。
その集落の起源については、江戸後期に製鉄や製炭のため、万之瀬川沿いの川辺方面から移住した人々によって拓かれたとされている。
地名の火の河原の「火」は、製鉄や製炭の際に発生する火、「河原」は製鉄の際に河原において水車を使用したことに由来するとされている。
自分は確認できなかったが「谷山市誌」によると地域では、製鉄で出された鉄滓が発見されているという。
また火の河原集落周辺にはマテバシイ、クヌギ、アラカシといった製炭に適した広葉照葉樹林が広がっていることから「水」と「火」は確保できる地域であったといえる。
製鉄に一番必要な原料となる「砂鉄」は、口碑によると喜入の前之浜海岸から搬入されていたという。
「谷山市誌」には、「娑婆で無理なものは、西目の百姓、前の浜からの砂鉄運び」という言葉が紹介されていて、山間部への砂鉄運搬は相当な苦労が伴っていたようだ。
それでも製炭に適した樹林と製鉄に必要な水車の動力源となる川の存在は、相当な山間部であっても頼もしかったようである。
現在集落を囲む山々はほとんどが国有林で、それらは杉やヒノキに姿を変えた場所も多い。製鉄の終息した正確な時期は不明だが、製炭は昭和30年代後半とされている。現在も山に入ると炭窯跡が随所で確認できるという。
それらの存在を示すように地域の小字には「ドセカマ」や「マキガマ」などが伝わっている。
集落では、かつての福平小学校火の河原分校跡が公民館施設として利用されている。
明治44年7月に福平尋常小学校の分教場として開校され、昭和51年3月に閉校となった学校である。
敷地内には校舎を利用した施設や二宮金次郎像、石垣などがほどよく残り、ここが学校であったことを静かに伝えてくれている。
その校庭跡からも集落をとり囲むように連続する山なみを望むことができる。こうした美しい山なみは集落の畑地からも楽しめて、その存在はただ囲まれているというだけでなく、包んでくれているという表現がしっくりくるような在り方である。
集落成立の物語、周辺の自然環境、廃校跡の佇まいなど、どれも集落にとって大切な個性であり、それらが融合することで、さらに火の河原集落の価値が増すと考え、すべてを面として僕立公園に認定することにした。
参考文献
谷山市誌 昭和42年3月発行 編集者 谷山市誌編纂委員会
近郊山村化の研究~鹿児島市火の河原集落の場合~ 斉藤毅 今吉成史
鹿児島地理学会紀要 第19巻 第2号 (1971年 12月)
この記事はかごしま探検の会の東川隆太郎さんに寄稿いただき、カゴシマニアックス編集部で編集したものです。
かごしま探検の会ホームページはこちら